臨済寺 今川義元の「赤鳥紋」| 赤鳥は垢取 意外な由来

臨済寺 と 今川義元の「赤鳥紋」

「赤鳥紋」は、記事の途中で詳しく解説しています。
こちらから、先に読むこともできます。

目次

今川義元いまがわよしもと公と臨済寺りんざいじ

東の京都

かつて、戦国の乱世。
応仁おうにんの乱により京都は焼け野原となり、混沌こんとんに包まれていた頃、文化が栄え、人々が穏やかに暮らす「東の京都」がありました。
そこは「駿府すんぷ」。
「戦国の雄ゆう」と称された今川義元いまがわよしもと公が治めていた地でした。
義元よしもと公は今、緑深き「臨済寺りんざいじ」で大切に供養くようされています。

実は、今川義元いまがわよしもと公は凄すごかった

臨済寺所蔵 今川義元像
写真 臨済寺 今川義元像
「今川義元公のイメージは?」と聞かれると、残念ながら多くの人は「公家かぶれした軟弱な武将」と答えるでしょう。
公家文化に親しみ、桶狭間おけはざまの戦いで僅わずかな兵を従したがえた信長に奇襲され、命を落としたから。
けれど実際には、義元公は「海道一の弓取り」 —— 東海道で一番強い武将と称された2人のうちの1人でした。
もう1人は徳川家康公です。

義元公は、室町幕府の将軍・足利氏の血筋である父と、公家の姫である母から五男として生まれました。
幼少期は「雪斎せっさい(太原崇孚そうふ)」を師として仏門に入り、京都の建仁寺と妙心寺で修行や勉学に励みました。
絵 今川義元の肖像画 歌川国芳『太平記英勇傳』出典:Wikimedia commons
18歳の時に転機が訪れます。
当主だった兄、氏輝うじてるが若くして亡くなり、紆余うよ曲折を経て義元公が家督を継ぎました。
義元公は、雪斎せっさいと共に領地を広げていきます。

その頃、京都では戦乱が続き、多くの公家たちが困窮こんきゅうしていました。
義元公は彼らを駿府すんぷの町に迎え入れました。
駿府では公家たちによって、和歌、蹴鞠けまり、茶の湯、香道こうどうなどの公家文化が広まり、今川文化へと発展していきました。
こうして、駿府は東の都会、文化の中心となったのです。

当時、駿府と甲斐かいの武田氏は隣接し緊張状態でした。
義元公は戦いよりも和歌による交流で緊張を和らげ、やがて同盟を結び、駿府の地を安定させました。
軍事・外交・法律・経済政策など、「戦国の雄ゆう」として抜きん出た手腕を発揮して、駿河の町を繁栄に導いたのです。
今川義元の肖像画 歌川国芳『太平記英勇傳』出典:Wikimedia commons

そして、450年を経て

しかし、時は戦国時代。
義元公、42歳の時、織田信長との戦いに敗れ、桶狭間おけはざまで亡くなってしまいます。
その時、体は愛知県豊川市の大聖寺だいしょうじに、首は今川の家臣が取り返して臨済寺にと、別々に埋葬されることになりました。
2018年、義元公生誕500年を機に、臨済寺では記念して「今川神廟しんびょう」が建てられました。
そして、初めて臨済寺と大聖寺の合同法要が行われ、およそ450年ぶりに義元公の全身が同時に供養されたのです。
また、臨済寺が所蔵する6千もの古文書の調査が行われ、義元公の葬儀の手順を記した「天沢寺殿秉炬てんたくじでんひんこ」という貴重な資料が発見されました。

徳川家康公と臨済寺りんざいじ

人質時代の家康公は不幸だった?

写真 臨済寺蔵 竹千代像と御由緒

3歳の時、徳川家康公は両親の離縁により母と別れてしまいます。
6歳の時には父が亡くなり、8歳から19歳まで、今川家の人質として駿府で育ちました。
人質だったことから、辛い経験をして育ったと思われがちですが、実際には義元公に大切にされ、可愛がられていたようです。
この頃の家康公は竹千代という名でした。
写真 臨済寺蔵 雪斎像

竹千代は人質というより、幼い岡崎城主として ここ臨済寺で教育を受けていた —— というのが最近の見解です。
臨済寺の住職であり、義元公が信頼を置いていた師匠・軍師の「雪斎せっさい」に竹千代の教育を任せたことからも分かります。
12年に渡る雪斎せっさいの教えが、やがて、後に300年も続く徳川幕府の礎いしずえとなったことでしょう。
静岡市の臨済寺にある徳川家康公の手習の間と天井に描かれた見事な龍の図
臨済寺は武田信玄による駿河侵略で焼失してしまいましたが、家康公が天皇の勅命により再建しました。
本堂は国の重要文化財、庭園は国の名勝に指定されています。
大書院では、家康公が学んだ「竹千代手習てならいの間」を再現した部屋を今でも見ることができます。
天井には龍が描かれています。
幼い頃の家康公は勉強に飽きた時には寝転んで、この龍を眺めていたのかもしれません。

静岡のお月見団子は、おへその形

静岡のお月見団子は「へそもち」といい、真ん中がお臍へそのように凹んでいます。
お臍へその所に餡あんを乗せて食べる、楽しい月見団子なのです。
この「へそもち」ができたのは徳川家康公のため。
両親と別れ、駿府で暮らしている幼く寂しい家康公を元気づけようと、家来が作ったのが始まりだとか。
優しい気持ちから出来た「へそもち」は、かつては新米で作るという決まりがあったそうです。

三つ葉葵紋

徳川将軍の家紋である三つ葉葵紋の描き下ろしイラスト
臨済寺の寺紋は「三つ葉葵」。
家康公に因んだお寺だからです。

「三つ葉葵紋」について詳しくは、下記をお読みください。

赤鳥紋あかとりもん

今川家の不思議な紋

戦国武将は家紋のほかに旗印はたじるしといって、戦いの時、旗に目印として描いた紋がありました。
織田信長公は「永楽通宝えいらくつうほう」
伊達政宗公は「金日の丸」
武田信玄公は漢詩『風林火山』より「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」
そして、今川義元公は「赤鳥」
赤鳥あかとり紋
「赤鳥あかとり」とは、字を見れば赤い鳥と思いますが、なんと「垢取あかとり」女性の櫛くしの垢をとる道具なのです。

このような道具をモチーフにしたものを器物きぶつ文様といいます。
生活の道具、乗り物、玩具、楽器など身の回りにある物が文様になれば、楽しい器物きぶつ文様となります。

器物きぶつ文様についての詳しい説明は、こちらをご覧ください。

赤鳥紋の由来

重要文化財に指定されている静岡浅間神社の鮮やかな総漆塗りの楼門
写真 静岡浅間神社 楼門
「赤鳥」には、こんな伝説があります。
駿河今川氏初代の今川範国のりくに(義元は10代)は、足利尊氏あしかがたかうじを助け数々の戦功をあげます。
美濃青野ヶ原あおのがはらの戦いの時、なぜか範国のりくにはふと思いついて旗印に赤鳥の紋を使いました。
勝利を収めた範国のりくには恩賞として、駿河国の守護になりました。
さて、初めて駿河国に入った範国のりくには、惣社そうしゃ(地域の祭神を集めて祀まつった神社)である神部かんべ神社(現在は静岡浅間神社内)にお参りをしました。

写真 静岡浅間神社内 神部神社

すると、不思議なことが起きたのです。
神部かんべ神社の神様が巫女みこに のり移り、神託しんたくを伝えます。
「おぬしが思い付きで使った「赤鳥」の紋は、私がおぬしに与えたもの。そのおかげで駿河を得たのだ」
範国のりくには、自分がなぜ垢を取るような道具を紋にしたのか納得し、子孫も必ずこの旗印を使う様にと言い置きました。
その後、今川氏は代々230年間、神部神社を崇敬すうけいし、赤鳥の紋を使い続けました。
紀元前91年鎮座の歴史を持つ静岡浅間神社・神部神社の厳かな総漆塗り社殿

「我赤鳥をたびし故に、勝事をも得、此国を給ひき」

『難太平記』

静岡浅間神社については、こちらで詳しく説明しております。

文化を守る臨済寺りんざいじ

臨済寺は修行寺のため一般には見学できませんが、春と秋に特別公開の日があります。
それ以外にも、狂言や、時には白拍子しらびょうしの舞も鑑賞することができます。
臨済寺は義元公の精神を受け継ぎ、今も文化を守り、伝え続けているのです。

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