久能山東照宮「三つ葉葵紋」|神と人を結ぶ葉が3枚、最強の紋様

久能山東照宮と三つ葉葵紋

「文様」については、記事の途中で解説しています。
「三つ葉葵紋」はこちらから
「唐花文様」はこちらから  先に読むこともできます。

目次

徳川家康公を最初にまつった久能山くのうざん東照宮

見下ろせば、駿河湾が広がる久能くのうの山に、絢爛けんらん華美かびな久能山東照宮が鎮座ちんざしています。

山々は龍の形を成し、その頭にあたる場所が久能山。
徳川家康公が愛した地「駿府」静岡市。

家康公は遺命として、「亡くなったら久能山へ埋葬せよ」と残しました。
「臨終候はば御躰をば久能へ納」『本光国師日記』
二代将軍、秀忠ひでただ公により東照宮は創建されました。
標高216mにもかかわらず、大きな石や木がふんだんに使われています。
権現ごんげん造りという当時の最高の技術が結集された、とてもきらびやかな建物。
特に国宝の御本殿は、木材にうるしを重ね、岩絵具で鮮やかに彩色をし、24金の金箔をほどこして、まさに贅沢ぜいたくの極みです。

咲き映える唐花からはな文様

東照宮には、色彩豊かな美しい唐花からはな文様が あちらこちらに。
下の動画で、さまざまな唐花文様を見ることができます。
久能山東照宮に描かれている唐花文様
唐花からはな文様
唐花からはな文様とは、空想上の花をモチーフにしています。
半円状の花びらを四つ並べているのが特徴です。

天下泰平てんかたいへいの世、たくさんの花々は平和の象徴でもありました。

龍・雲・波・魚・ハート これらに込められた願い

龍・雲・波・魚・猪目いのめ(ハート)
全て「火を防ぐ」という意味があります。

江戸時代、戦いは終わり、平安な世が訪れました。
人々にとって一番の恐怖は火事となりました。
神社には、防火の願いを込めた文様が多くあるのです。

龍は雲を呼び、雲は雨を降らせます。
そして、波。
神社の屋根には、妻飾りの「懸魚けぎょ」が多く見られます。
魚の形を模してあり、魚は水の中にいることから防火を意味します。
ハートは猪目いのめ。つまりいのししの目を表しています。
猪は火伏ひぶせの神様の使いと言われ、火事から守ってくれると信じられていました。
写真 左 懸魚 右 猪目

ちょっと不思議なあおいの御紋

不思議さがし

久能山東照宮では、「三つ葉あおい」のご神紋を至る所で見ることができます。
特に、屋根の軒丸瓦のきまるがわら垂木たるきには、黒地に金色の葵紋が無数に並び、荘厳な眺めです。
が、見惚みとれていると、何か違和感が…。

御本殿

上の写真は、御本殿の軒下部分。
少し違う葵紋のあるのが、お分かりになるでしょうか?
答えは、右 の「▼」のマークをタップしてください。

拝殿 横

こちらの写真は拝殿の写真。
違う葵紋を探してください。
答えは、右 の「▼」のマークをタップ。

拝殿 角

こちらも拝殿。
ちょっと違う葵紋はどこでしょう?

不思議の意味

久能山東照宮には、この様な「逆さ葵紋」が4つあります。
わざわざ、逆さの図柄にしたのには、特別な意味が込められているのです。
その理由は… 

「及ばざるは過ぎたるよりまされり」
家康公の遺訓です。
完璧に創り上げてしまうと、これ以上の発展の余地がなくなってしまう。 
わざと不完全にすることにより、徳川家、そして、東照宮が ますます栄え、永遠に続くようにという願いが込められているのです。
そして、江戸幕府は264年も続きました。

京都の下鴨しもがも神社にも「逆さ葵紋」があります。
しかし、その理由は別なもの。
詳しくは、こちらをお読みください。

三つ葉葵みつばあおい

葉葵ばあおい紋の由来

三つ葉葵紋
ハート型の葉を持つフタバアオイ(双葉葵)
三つ葉あおいの文様のモチーフはフタバアオイです。
本来「葵」の読み仮名は「あふひ」、「ひ」は神様のこと。
「神様に会える」植物と考えられていました。

三つ葉葵紋には「神仏加護」「立身出世」の願いが込められています。
徳川家が葵紋を家紋にした由来は各説あります。

1. 徳川家の祖先の松平家が、京都賀茂かも神社の氏子うじこであり、賀茂神社の御神紋がフタバアオイ紋だった。
2. 家康公の祖父、松平清康まつだいらきよやすが城攻めで勝利をおさめた祝いの席で、家来がアオイの葉をお皿にしてさかなを出したところ、清康は そのいきはからいを喜び、その家来の家紋であった葵紋を譲り受けた。(この家来は、本多正忠ほんだただまさとも酒井氏忠さかいうじただとも言われている)

実際の植物の葵の葉は2枚で、3枚ではありません。
二葉より三葉の方がデザイン性が高いこと、葉の並ぶ形が渦巻きになっておりともえ文様を思わせることから、三つ葉の図案になったとされています。

三つ葉葵文様のぬり絵を無料で楽しめます。
こちらから下絵をダウンロードをしてください。

葵紋の変遷へんせん

徳川将軍家歴代および御三家・会津松平家の三つ葉葵紋の変遷一覧
画像をタップすると大きくなります
三つ葉葵紋は、基本的には徳川家一門だけが使うことを許されていました。
徳川家一門とは、将軍家と家康公の子孫である四家…御三家(尾張・紀州・水戸)と会津松平家のことです。

葵紋は将軍により少しずつ変化しています。
葉の芯の数が減ったり増えたり、並び方が変わったり、茎の太さや形が変化したり。

四代目以降の将軍たちが、家康、秀忠、家光の三代の将軍を崇敬し、同じデザインでは恐れ多いと変化させたそうです。
そして、御三家と会津松平家も将軍家に対し遠慮して、少し図案を変えました。

富を得るには「金の成る木 」家康公の遺訓より

東照宮は山の斜面に建てられています。
境内を歩いて一番奥、山の頂上の方に、家康公の神廟しんびょうがあります。
家康公の遺骸いがいが埋葬されたお墓です。
神廟しんびょうの周りには沢山の木が立っています。
その中の一本の大きなくすの木が「金の成る木」と考えられています。
「金の成る木」は、有名な家康公の教訓です。
家康公は家臣に「金の成る木」を知っているかと問いましたが、家臣は答えられませんでした。
家康公は三本の幹のある木を描き、それぞれに次のような言葉を書きました。
よろずほど良 (何事も、ほどほどを大切にすること)
・慈悲深
・正じ木
「これらを実践すれば、富を得るだろう」と。

この話を聞いた細川忠興ただおきが、家康公の木に6本の枝を描き足しました。
枝にはこのように書かれていました。
・朝起き
いさぎよ
・辛抱強き
・油断なき
・養生よき
・家内睦まじき
家康公は感心し、「これらを実践すれば、さらに富貴を得るだろう」と、家臣に「金の成る木」を写し実践するよう命じました。

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