姫路城 瓦の「蝶紋」|3匹の蝶が白鷺を守った

姫路城 と 蝶紋様

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目次

姫路城

その白さに光をとめて、姫路城は優美に そびえています。
白鷺しらさぎ城」の愛称で親しまれている この城は、日本で初めて登録された世界遺産の一つです。
姫路城の魅力は、極めた美と強固な守り。
絵 『播磨国姫路城絵図』出典:国立国会図書館デジタルコレクション

ここ播磨はりまの地は「1に播磨、2に越前」と言われるほど、米・海の幸・山の幸が豊かな場所でした。
現存の城は関ヶ原の戦いの後、家康公の命により姫路城主となった池田輝政てるまさが大改築しました。
豊臣秀頼ににらみをかせ、豊臣家に味方する西国の武将たちを抑えるため。
完成は1609年、あらゆる防御の機能を持つ城ですが、一度も本格的な戦場となることはありませんでした。
『播磨国姫路城絵図』出典:国立国会図書館デジタルコレクション
写真 戦争中、黒い網(偽装網)をかけられた姫路城  出典:ウィキメディア・コモンズ

昭和20年の空襲では、あたり一面焼け野原の中 姫路城だけは無事でした。
天守の最上階には焼夷弾しょういだんが落とされていましたが、運良く不発。
地域の人たちが何とか守ろうと、黒いあみで城をおおったことも一因と言われています。

かわらの家紋は城主の変遷へんせん

様々な家紋が施された姫路城の軒丸瓦
姫路城ののきかわらには色々な家紋がほどこされ、目を楽しませてくれます。
何種類も家紋があるのは、城主が度々交代したから。
城主が幕府の意向にそむいたり、世代替わりした城主が幼かったりして、池田輝政てるまさ以降、6家系31人もの城主が治めました。
修理のき替えの度に、新しい城主の家紋が混じることになったのです。

蝶紋 池田家

白鷺しらさぎ城を建てた池田家

池田輝政の肖像画 出典:Wikimedia commons
絵 池田輝政の肖像画 出典:Wikimedia commons

姫路城のかわらの中で最も目立つ家紋は「ちょう紋」です。
現存する姫路城を築城した初代藩主の輝政てるまさ以降、池田家は3代にわたり城主となりました。

揚羽蝶あげはちょう紋」や「星蝶紋」など五種類の蝶紋が見つかっています。

ちょう

ちょう
卵から青虫や毛虫に、そしてさなぎに。
さなぎの中身は液体なのに やがて美しい姿へと変身する蝶は、神秘的な力を秘めていると考えられ、不死不滅の象徴でした。
蝶紋は平清盛たいらのきよもりが使用していたことで有名です。

姫路城の瓦には、「揚羽蝶あげはちょう紋」2種類と星の形をした「星蝶紋」が見られます。
星蝶紋には、星文様の「希望・魔除け」の意味も加わりました。

 蝶文様に関しては、「向蝶丸むかいちょうまる文様」の記事や「臥蝶丸ふせちょうまる文様」の記事で詳しく書いてあります。

立葵たちあおい紋 本多ほんだ

池田家の次の藩主は、本多忠政ほんだただまさでした。
江戸幕府の成立に大きな貢献をした徳川四天王してんのうの一人、本多忠勝ただかつの長男です。

千姫せんひめの幸せ

千姫 月岡芳年 画 出典:Wikimedia commons
絵 千姫 月岡芳年 画 出典:Wikimedia commons
かつて姫路城には、豪華な二の丸御殿ごてんが立っていました。
主は、家康公が可愛がっていた孫娘「千姫せんひめ」。
徳川秀忠ひでただと織田信長のめいこうの娘です。
数奇な運命を生きた女性です。
千姫はわずか7歳で、豊臣家の政略により秀吉の息子、豊臣秀頼とよとみひでよりと結婚させられました。
時は過ぎ、「大坂夏の陣」が起こり秀頼ひでよりは自害、千姫は助け出されます。
その時19歳。
江戸へ向かう道中、本多忠刻ほんだただときと運命の出会いをし、二人は恋に落ち結婚しました。
忠刻ただときは、本多忠勝ただかつの孫です。
2人とも徳川と織田の両家の血筋を引き、お似合いの美男美女の夫婦だったそうです。
忠刻ただときの父、忠政ただまさが姫路城主となり、千姫は莫大なお輿入こしいれ料と共に姫路に住むことになりました。
その資産により二の丸御殿が建てられました。
明治期に 二の丸御殿は取り壊されましたが、その周囲を囲んでいた長い「百間廊下ひゃっけんろうか」は当時のまま現存しています。(写真)

わずか5年後、夫忠刻ただときの死により、またも千姫は運命の悪戯いたずら翻弄ほんろうされることとなります。

 千姫が1番幸せだった姫路城でのおだやかな日々が、当時まれた夫婦の連歌れんがからしのばれます。

初秋の 風をすだれに まきとりて  (忠刻)

のきにおふ 竹の葉の露      (千姫)

立葵たちあおい

立葵たちあおい
立葵たちあおい紋はフタバアオイをモチーフにした紋です。
本多家の先祖が、賀茂かも神社の神職だったことから、この紋が使われました。
葵文様には「神仏加護」の意味があります。
立葵は、上に上に高く茎を伸ばすことから、「繁栄」の意味も加わりました。

フタバアオイ紋に関しては、賀茂神社の記事をご覧ください。

立沢瀉たちおもだか紋 松平家

松平家

松平忠明像 出典:Wikimedia commons
絵 松平忠明像 出典:Wikimedia commons

本多家の次に城主となったのは奥平の松平忠明まつだいらただあきらでした。
徳川家康公と築山つきやま殿の長女「亀姫」の婿むこです。
築山つきやま殿は家康公の最初の正妻でしたが、処刑されてしまいます。
なぜ そのような悲劇が起きたのか、背景には、織田信長の命令だったとか諸説ありますが、謎に包まれています。

松平家の家紋は沢瀉おもだか紋です。

沢瀉おもだか

沢瀉おもだか
沢瀉おもだか面高おもだかとも書きます)は、池や沼に自生する植物です。
葉脈が盛り上がり人の顔のように見えるので、「面高おもだか」と名付けられたと言われています。
葉の形がたてやじりに似ているため「勝草かちぐさ」とも呼ばれて、「立身出世」の願いが込められた武家好みの文様となりました。
また繁殖力が強いことから、「子孫繁栄」の意味もあります。

桐紋 越前松平家

大変な国替くにが

松平直矩の肖像出典:Wikimedia commons
絵 松平直矩の肖像出典:Wikimedia commons

次に城主となったのは、越前・松平家でした。
松平直矩なおのりは色々な不運が重なり、1年足らずで国替くにがえとなってしまいます。
国替くにがえとは引っ越しのこと。
参勤交代よりも大事おおごとでお金のかかることでした。
この時の国替くにがえの様子を題材にした小説『引越し大名三千里』が書かれており、映画化もされています。

五七桐紋

五七桐紋
大きな葉の先に、小さな紫の花を枝先いっぱいに咲かせるきり
鳳凰ほうおうが桐にむという言い伝えから、神聖なとされていました。
平安時代には、桐文様は皇室や公家に用いられた高貴な吉祥文様でした。
そのため、文様には「高貴」「天下泰平」の意味があります。
また、桐は成長が早くまっすぐ育つため、「子孫繁栄」の願いも込められました。

室町時代になり、足利尊氏あしかがたかうじが天皇から桐紋を使うことを許されて以降、信長や秀吉、彼らから下賜かしされた武将たちも桐紋を使えるようになりました。

源氏車げんじぐるま紋 榊原さかきばら

殿様は遊び人

当時の吉原 『新吉原大門口中之町浮絵根元』 奥村政信 筆 出典:ColBase
絵 当時の吉原 『新吉原大門口中之町浮絵根元』 奥村政信 筆 出典:ColBase
榊原さかきばら家は、徳川四天王してんのうのひとり榊原康政さかきばらやすまさの子孫です。
姫路城主となった榊原政岑まさみねの気取らない性格は町人に とても人気がありました。
しかし、殿は たいそうな遊び人。
参勤交代の江戸では吉原に入りびたり、ついには大夫たゆう(名は高尾たかお)を落籍らくせき、姫路に連れて帰ってしまいます。
時は享保きょうほ
吉宗将軍の享保の改革により贅沢ぜいたくは禁止され、もちろん大名が遊郭ゆうかくで遊ぶことも禁止されていました。
絵 高雄の紅葉狩り『観楓図屏風』狩野秀頼 筆 出典:ColBase
政岑まさみねは幕府から罰として隠居いんきょを命じられます。
まだ28歳の若さでした。
殿が姫路を去る時、別れを惜しんだ町人たちのんだ歌が残っています。
「紅葉狩り すんで車の ところ替え」
大夫たゆうの“高尾たかお”の名から、紅葉の名所の“高雄たかお”を連想し、車は家紋の「源氏車げんじぐるま」を指しました。
高雄の紅葉狩り『観楓図屏風』狩野秀頼 筆 出典:ColBase

源氏車げんじぐるま

源氏車げんじぐるま
源氏車『源氏物語 葵絵巻』出典:ColBase
絵 源氏車『源氏物語 葵絵巻』出典:ColBase

源氏車げんじぐるまとは別名“御所ごしょ車”とも言い、平安時代に皇族や貴族が乗った牛車ぎっしゃでした。

文様の「源氏車」は、牛車の車輪を図案化したものです。
車輪は回り続けることから、「永遠」の意味を持つ吉祥文様です。

かたばみ紋 酒井家

文武両道の立派なお殿様

酒井忠以 画 宗雅 左『兎図』 右『石楠花に山鳩図』出典:Wikimedia commons
絵 酒井忠以(宗雅) 画 左『兎図』 右『石楠花に山鳩図』出典:Wikimedia commons

最後に城主となった家は酒井家でした。
歴代の姫路城主の中では、120年という最も長い期間を治めました。
酒井家は文武両道を重んじる家柄でした。

そのころの姫路藩は財政難に苦しんでいましたが、酒井忠以さかいただざねは善政をほどこし、飢餓きがに苦しむ民を救いました。
忠以ただざねは風流なお殿様で、「宗雅そうが」と名乗り書画・俳句・茶道に秀でていたそうです。

かたばみ紋

かたばみ紋
かたばみは、道端などでよく見かける黄色い花をたくさん咲かせている草です。
茎や葉はシュウ酸を含んでいて、古代にはその葉で鏡を磨いていました。
そのため「酢漿草かたばみ」と漢字では表記されます。
「鏡草」と呼ばれることもあります。
夜になると葉を半分閉じてしまう「かたばみ」
昼間は、葉はハートの形をしています。
夜になると葉を閉じる習性があり、まるで葉の半分を虫か何かに喰われたように見えることから、「片喰草かたばみ」という漢字でも表されるようになりました。
かたばみは繁殖力が強いことから武士に好まれ、子孫繁栄を意味します。
また鏡にゆかりがあるので、美人祈願の願いも込められました。

姫路城 あやかしの物語

人形浄瑠璃じょうるり歌舞伎かぶき
長い歴史のある姫路城が舞台となった物語は数多くあります。
その中には、不思議なあやかしの伝説が いくつもあるのです。

宮本武蔵みやもとむさしあやかし

宮本武蔵 像 歌川国芳 画 出典:Wikimedia commons
絵 宮本武蔵 像 歌川国芳 画 出典:Wikimedia commons
姫路城に、あるうわさが広まりました。
真夜中、まっ暗なはずの天守閣に灯がともり妖怪が出るというのです。
ちょうどその頃、宮本武蔵むさしは修行のため名を変え、足軽あしがるとして姫路城に仕えていました。
名を隠してもその豪胆さは隠せず、彼に妖怪退治の命が下ります。
武蔵が天守閣の階段を上り3階まで来ると、すさまじい炎・地響き・地震が同時に起こります。
ところが、武蔵が太刀たちに手をかけるや否や、さぁっと静かになりました。

4階でも同様。
武蔵は最上階まで行き、寝ずに番をしました。
やがて明け方になると、美しい姫が現れ「私はこの城の守り神、長壁おさかべ神です。毎夜、妖怪ようかいに悩まされていましたが、其方そなたを恐れ妖怪ようかいは退散しました。褒美ほうびにこの宝剣を差し上げましょう」とお礼を言い、姿を消しました。
後には白木の箱が残され、中には「郷義弘ごうのよしひろ」という名刀が入っておりました。

天狗てんぐあやかし

写真 天守閣の最上階にある長壁神社
池田輝政てるまさが城主の時の伝説。
天守が完成した年、お城の中で呪詛じゅその手紙が見つかりました。
天狗てんぐのろい殺されたくなければ、城の中に八天堂はってんどう(仏堂)を建てよ」
手紙の主は「はりまあるじの大天神とうせん坊」、つまり天狗てんぐでした。てるまさ
輝政てるまさはこの手紙を無視しましたが、その後 重い病にせってしまいます。
いっこうに回復する気配もなく、高僧と名高い圓満寺えんまんじの「明覚上人みょうかくしょうにん」に祈祷きとうを奉納してもらいます。
呪詛じゅその手紙を読んだ上人しょうにんは、八天堂はってんどうの建立を勧め、御堂みどうが建てられました。
また、地主神である「長壁おさかべ神」をまつる神社も建てられました。
その後、輝政は無事に平癒へいゆ
今でも圓満寺えんまんじには、呪詛じゅその手紙が残っているそうです。

お菊の井戸の物語

播州皿屋敷」の伝承で知られる、姫路城内に残るお菊の井戸と石碑
「1枚、2枚、3枚…」
毎夜、井戸の底から聞こえる皿を数える悲しげな声。
有名な怪談「播州ばんしゅう皿屋敷」の井戸が、姫路城内にあります。
姫路城主の座を狙った家老と その同志が悪どい計画を企てていました。
それに気づいた忠臣ちゅうしんは、お菊を奥女中として奉公させ探らせます。
お菊の働きにより、陰謀いんぼうは未遂に終わりました。
が、逆恨みした家老の同志が城の宝の皿10枚の内の1枚を隠し、罪をお菊に なすりつけてしまいます。
お菊は折檻せっかんされて命を落とし、遺体は井戸に投げ込まれました。
その夜より、井戸から皿を数える恨めしげな声が聞こえるようになったとか。
今でも、その井戸は「お菊井」として姫路城内に残されています。
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