雲立涌文様|エジプトの椰子の葉は、日本で雲になる

エジブトでの椰子の葉の文様が、日本に伝わり変化した「雲立涌文様」の描き下ろしイラスト
雲立涌文様

「雲立涌文様」は、記事の最後に解説しています。
先に読みたい方は、こちらからどうぞ。

目次

脩子ながこ内親王は どんな皇女 ?

父帝の愛に守られた子ども時代

枕草子絵詞より。中宮定子と一条天皇
脩子ながこ内親王は、一条天皇と中宮“定子”の長女です。
6歳の時に母が亡くなり、祖父母もすでに他界、伯父たちは事件を起こし失脚していました。

後見人がいないとは言え、一条天皇にとって初めての子。
帝は彼女を宮中で育て、溺愛できあいしました。
裳着もぎ(平安時代の女性の成人式)の時には、父帝は彼女に高い位と財産を与えました。
絵 中宮定子と一条天皇 出典:『枕草子絵詞』(Wikipedia「藤原定子」より)

誇り高き 寂しい皇女

弓矢を持ち馬に跨る勇ましい藤原隆家
脩子内親王は、妹“媄子びし内親王”、伯父“藤原伊周これちか”、そして、父“一条天皇”と次々に死別してしまいます。
まだ16歳でした。
藤原道長や中宮“彰子”が後見こうけんを申し出ます。
けれど、誇り高き内親王。
彼女は、母“定子”に冷たかった道長一族の申し出は断り、もう1人の伯父、藤原隆家たかいえの援助を受けます。
父帝のおかげで、経済的には豊かでした。
23歳の時には、弟の敦康あつやす親王が亡くなってしまい、孤独の身となりました。
彼女は一生独身を通し、29歳の若さで出家しました。
絵 藤原隆家 出典:菊池容斎『前賢故実』(国立国会図書館デジタルコレクション)

出家後でも、母定子を思わせる文化サロン

枕草子の写本。書写者不詳
若くして出家をした脩子内親王でしたが、お寺にこもることなく、母“定子”のような華やかな文化サロンをもよおしていました。
彼女はそう(現在の琴)をとても上手に演奏しましたので、音楽の才能ある人たちが集まり、演奏会を開いていたそうです。

また、つかえていた女房の中には、“相模さがみ”や“加賀左衛門かがのさえもん”など勅撰集に選ばれるほどの和歌の名人がいたため、歌合うたあわせも開催していました。

脩子内親王は美しい字を書いたことで有名です。
多くの文学作品を集め、書き写していました。
定子に仕えていた清少納言の『枕草子』を、後の世に伝える活躍もしたと伝えられています。
文化を愛し、貢献した、穏やかな後世でした。

写真 枕草子の写本(書写者不詳) 出典:国立国会図書館デジタルコレクション 

亡くなってからも尊敬されていた皇女

脩子内親王は魅力ある女性でした。
・一条帝に愛された皇女だったこと
・後一条天皇と後朱雀すざく天皇の異母姉だったこと
・養女(藤原延子)が後朱雀天皇に入内したこと
これらのことから、公卿くぎょうたちは脩子内親王に丁重に接したと言われています。

彼女は54歳で永眠。
葬儀の日は2月7日、釈迦しゃか入滅にゅうめつと同じ日だったので、人々は「きっと成仏なさるだろう」とたたえたそうです。

雲立涌くもたてわく文様

ドラマ「光る君へ」での脩子内親王の衣装は「雲立涌くもたてわく文様」でした。
雲立涌文様
『源氏物語絵巻』で有名になった図案です。

立涌たてわく」とは、2つの波状の形を向かい合わせにし、縦に伸びていく文様です。
広い空間と狭い空間ができ、広い部分に雲を描いています。

この文様の雲は、雲というより植物の葉のようです。
それは、この文様の元祖が なんと古代エジブト発祥はっしょうだから。

「パルメット文様」と呼ばれ、椰子やしの葉が扇状に広がっているモチーフを横に連続した文様です。
やがて、シルクロードを通り中国や朝鮮に渡ると、椰子やしの葉は忍冬すいかずらの葉となり「忍冬唐草すいかずらからくさ文様」になりました。
これが「雲立涌文様」の原型と考えられています。

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