蜀江文様 〜〜大河「べらぼう」一橋治済の衣装より

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一橋治済ひとつばしはるさだは暗躍者か? はたまた 強運の持ち主か?

11代将軍“徳川家斉いえなり”の父“一橋治済ひとつばしはるさだ”。
ドラマ「べらぼう」では、自分の息子を将軍にするため、様々な謀略ぼうりゃくを巡らせた様子が描かれています。

しかし、事実は、治済はるさだは陰の暗躍者か、様々な偶然が重なった強運の持ち主か、謎は歴史に埋もれたままなのです。

四男なのに世継よつぎとなる

一橋治済はるさだは第八代将軍、徳川吉宗よしむねの孫にあたります。
四男として生まれた治済、本来なら一橋家の世継ぎとしては程遠い立場でした。

1番上の兄は4歳の時に幕命により養子に出されましたが、若くして亡くなったため、3番目の兄が その後を継ぎました。
2番目の兄は早逝しています。
こうして、四男の治済に世継ぎのチャンスが巡ってきました。

将軍候補ライバルの定信さだのぶは、松平家の養子へ

田安定信たやすさだのぶ、後に老中ろうじゅうとなり寛政かんせいの改革を行う松平定信まつだいらさだのぶは、田安家の次男として生まれました。
一橋治済はるさだと同じく吉宗将軍の孫にあたります。
幼い頃から聡明かつ揺るがぬ精神で、将軍“徳川家治いえはる”に長男が生まれる迄は、将軍候補と噂されていました。
やがて、定信に松平家への養子の話がきます。
定信の兄は病弱であり子供もいなかったことから、田安家が途絶えてしまう恐れがあると定信は断りますが、将軍の命により松平家の養子にならざるを得ませんでした。
養子となった定信は田安家の後継あとつぎの権利を失います。
それは、もしも将軍の長男に何か不幸があった場合、次期将軍候補としての権利も失うことでした。
大河ドラマでは、田沼意次たぬまおきつぐを通じて、一橋治済が裏で操っていたことになっていますが、真相は分からないままです。
田沼意次に関しては、こちらをご覧ください。

将軍の長男が16歳で急死‼︎

第10代将軍、徳川家治いえはるは長男“家基いえもと”が生まれると、次期将軍として熱心に教育し、家基いえもとも父の期待に応え、賢く人望も厚い青年に成長していました。
が、突然、16歳の若さで急死してしまいます。
元気な青年だったこと、たか狩りに行った帰りに突然亡くなったことから、毒殺ではないかという説があります。
この件も大河では一橋治済はるさだが犯人とされていますが、真相は闇の中のままです。
こうして、一橋治済の長男は将軍の唯一の後継者となり、将軍の養子となり“徳川家斉いえなり”と命名されました。

将軍の死

将軍“家治いえはる”は数え50歳のとき、病を患います。
老中の田沼意次たぬまおきつぐが連れてきた町医者の調合した薬を飲みます。
その後、まもなく家治は急死してしまいます。

これにも、一橋治済が田沼をあやつり殺害したのでは、という説もありますが、やはり真相は分かりません。

望みが叶い、将軍の父となるが…

こうして、治済はるさだの長男“家斉いえなり”は11代将軍となりました。
家斉いえなりは子沢山、53人(内、息子は26人)もいて、治済はるさだの子孫は栄えていきます。
治済は将軍の父として、とても贅沢ぜいたくな暮らしを楽しみました。
後に「天下の楽に先んじて楽しむ」と評されるほど。
が、それだけなのです。
この頃の政治の実権は老中など家臣が行なっており、治済はるさだが政治の中心となることは不可能でした。
もしも、様々な疑惑が本当だったとしても、ただ贅沢をしたいためだけに何人もの人を殺したとは考えられないと言われています。
悪事を働かなくても、元々ある程度の財産や権力は持っていましたので。

蜀江しょっこう文様

ドラマでの一橋治済はるさだの衣装は「蜀江しょっこう文様」でした。
蜀江文様とは、八角形と四角形をつなげた文様のこと。
治済の衣装は、八角形の中には唐花からはな文様、四角形の中には緯縞よこじま文様が組み合わされています。
蜀江しょっこう文様
八角形と四角形を連続してつなげた この文様は中国の伝統文様です。
八角と四角の中に花や鳥など、色々な文様を組み合わせる豪華な図柄です。
かつての中国「しょく」の首都を流れていた川のことを「蜀江しょっこう」と呼びました。
この地域で織られる絹が良質と評判高く、その織り柄が八角形と四角形の組み合わせの模様が多かったことから、「蜀江しょっこう文様」と名付けられました。

古くは、法隆寺の宝物『法隆寺蜀江錦』ほうりゅうじしょっこうにしきに、この文様を見ることができます。
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